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時事・プレイバック
平成の大合併の先駆けとして誕生したあきる野市が9月1日で市制施行30周年を迎える。市は8月31日にS&D秋川キララホール(あきる野市秋川)で記念式典を行い、市政発展の新たな出発を期す。
合併30周年 市政発展の新たな出発に あきる野市 平成大合併のさきがけ その舞台裏
市は昨年から公募でキャッチコピー「あきる野市30年 未来へ繋ごうトカイナカ」を決めるなど市制施行30周年記念事業を広く展開。豊かで美しい自然、先人たちから受け継がれてきた歴史・文化、地域を支える人々のつながりを再認識し、未来へと引き継ぐ努力が始まっている。
式典では中嶋博幸市長が式辞を述べ、同市出身で元バレーボール日本代表の木村沙織さんを「あきる野ふるさと大使」に任命する。市民参加のダンスフェスティバルが祝いに花を添える。
1992(平成4)年1月、秋川、五日市、日の出、檜原の4市町村でつくる合併促進協議会(会長・臼井孝秋川市長)が秋川市役所で開かれた。臼井孝秋川市長、田中雅夫五日市町長、青木國太郎日の出町長、鈴木陸實檜原村長はじめ30人が出席。秋川市と五日市町が、都が計画する秋留台地域総合整備計画の受け皿として早期に合併をすべきと積極論を展開したのに対し、日の出町と檜原村は時期尚早と消極的な姿勢を示した。これを受け、秋川市と五日市町が新たな合併協議会を設置し、両市町の合併を目指すことになった。
両市町の合併への流れは、前年11月末に行われた地域新聞「西の風」新春号に掲載する新春座談会の収録の際に概ね決まった。収録には秋川市、五日市町の両首長と両商工会長が出席。臼井市長が「合併しよう。秋川市が嫁に行く」と田中市長に呼び掛けた。石川昌宏秋川市商工会長、磐本忠次五日市商工会長も賛同した。
この時のもようは、当時新聞社社長で座談会の司会を務めた橋本健司氏の著作「蒼天 秋留台地に生まれて」(2024年1月、西の風新聞社発行)にある「あきる野市合併」の項に詳しい。
「合併しよう。秋川市が嫁に行く」秋川、五日市の合併構想が動き出す
「蒼天」から引用
「新春座談会は創刊2年目から各首長を呼んで1年の抱負を語り合うことになっていた。だが、このときは青木国太郎日の出町長、鈴木陸実檜原村長の都合がつかず欠席。代わりに秋川、五日市の両商工会長を招いての開催となった。
座談会では秋川流域の商工業の発展や都市整備の課題、環境の保全などが語られたが、当時は都の秋留台地域総合整備計画が練られており、地元では同計画への4市町村の整合性ある対応が求められていた。
(中略)
収録を終えオフレコとなった所で司会を務めていた私は、「よう、合併すんべえじゃんかよ」といきなり切り出した。間髪を入れずに臼井市長が「合併しよう。秋川市が嫁に行く」と田中町長に呼び掛けた。石川昌宏秋川市商工会長、磐本忠次五日市商工会長も全面的に賛同。西の風新聞は発刊理念の柱に秋川流域の合併を掲げており、私はもとより森田(浩一)氏、藤澤(昌一)氏ら西の風新聞役員は色めき立った。平成の大合併の先駆けとなる秋川、五日市の両市町の合併構想が動き出した瞬間だった。
ほどなく秋川市・五日市町合併促進協議会が発足し、新市誕生に向け動きを加速させていった。ただ、五日市町の住民を中心に合併反対の声は強く、田中町長はリコールの署名活動を受ける苦しい場面にも立たされた。幾多の困難はあったが、1995(平成7年)9月、あきる野市が誕生した。」
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整備が進む武蔵引田駅北口の区画整理地区。秋留台地域総合整備計画のミニ版とも言えそうだ
合併までの主な経過をたどると次の通りになる。
1993(平成5)年1月、任期満了に伴う秋川市長選が開票され、臼井孝氏が5選を果たした。1万3546票を獲得。対立候補に1万票以上の大差をつけ圧勝した。記者会見で「高水準の生活環境都市の実現に力を注ぎたい。合併については市民にビジョンを示し、理解を得ながら全力で取り組みたい」と抱負を述べた。
1994(平成6)年4月、同合併促進協議会は合併後の新市の青写真となる将来構想「ヒューマン・グリーン21」を両市町の議会全員協議会で提示した。提示後、田中町長と臼井市長は記者会見し、合併が財政基盤を強化し、21世紀に向け住民がいきいきと暮らせ、誇れるまちづくりの推進に多大な力になると希望を語った。
同年9月、同合併促進協議会は、両市町で実施した合併に関する住民意識調査結果を発表した。合併の賛否では賛成が42・4%で、反対の20・5%を2倍上回った。調査は有権者の6%に当たる3500人を対象に郵送方式で行われ、2419人から回答を得た。結果を受け、両首長は「大変良い結果が出た」と評価。合併推進に強い決意を見せた。だが、「合併の賛否は両市町民の直接投票で決めるべき」と主張するグループは反発を強めることになった。
同年11月、同合併協議会で、合併方式は対等であることを確認した。ただ、新市名や庁舎の位置の決定は慎重に検討すべきとの認識で一致し、先送りされた。一方、合併の可否を住民投票に求めるグループの動きも大詰めを迎え、両議会で審議されることになった。
1995(平成7)年2月、同合併協議会は、合併の期日を同年9月1日に決定した。9月に任期満了を迎える両市町議会選挙はなくなり、任期が延長されることになった。新市の名称については、五日市町側から「五日市の名を残してほしい」との要望が出されていたが、一部委員からは都知事裁定が妥当だとの意見も出た。
1995年8月、9月1日のあきる野市誕生後、10月に実施される市長選に田中雅夫五日市町長が立候補に向け動いていることが記者会見で明らかになった。同席した臼井孝秋川市長は合併に絡む暫定人事となる新市の市長職務執行者になると発表した。併せて市長選では田中町長を支援していくとした。一方で臼井市長の去就については衆院選に東京25区から立候補するとの噂がひとり歩きしていた。会見で質されると、「新市長が決定するまで職務執行者として全力を尽くす以外、何も考えていない」と語った。
同年9月1日、あきる野市が誕生。10月、あきる野市長選で田中雅夫氏が当選し、初代市長となった。
1996(平成8)年8月、東海大菅生高校が春夏を通じて初の甲子園出場を果たした。行進の際のプロフィール紹介で、「あきる野市は秋川市と五日市町が合併して生まれたまちです」とアナウンスされ、全国にあきる野市の存在を知らしめた。
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橋本氏は「あきる野市合併」の項をこう締めくくっている。
「平成の大合併は1999(平成11)年から政府主導で行われた市町村合併をいう。自治体を広域化することによって行財政基盤を強化し、地方分権の推進に対応することなどが目的だった。あきる野市の合併については今もって否定的な評価を下す声も一部にあるが、政府主導で始まる4年も前に自治体の将来に向け決断を下し、歩み出したことは大いに誇れるものと確信している。平成の大合併は市町村合併特例新法が期限切れとなる2010(平成22)年3月末に終了した。この結果、1999年に3232あった自治体は2010年には1727になった。この間、西多摩では福生、羽村、瑞穂の2市1町、青梅市と奥多摩町の合併が模索されたが、いずれも合意には至らなかった。」
(構成・岡村信良)