秀吉による天下統一は、実質、北条氏の小田原城開城に先んじた八王子城攻略(天正18年6月23日)で完成したとされる。八王子城の城代であった横地監物(よこちけんもつ)は、八王子城落城時、北条氏傘下の平山氏が城主として守っていた檜原城に逃れ、再起を伺った。が、檜原城は落城し、最後の城主平山氏重は千足に逃れ、天正18年7月12日にこの地で自刃し、平山氏終焉となった。この日は小田原城開城後、北条氏照が切腹した翌日にあたる。横地監物はさらに小河内に逃れたが、その地で自刃した。以上が檜原や奥多摩に伝わる話であるが、異説も多い。
平山氏は源平合戦で大活躍した平山季重(すえしげ)を祖先に持つ。平山城址公園駅あたりが平山氏の故郷である。室町時代に鎌倉公方足利持氏に従い手柄を立て、檜原谷を与えられ、甲斐武田氏に対する押さえとして檜原城を築いたとされる。平山氏は後、北条氏に従い、檜原城は武田氏に備えた北条方最前線の城となった。
檜原村には平山氏重や檜原城主にまつわるものが残されている。千足の御霊檜原神社は氏重とその子氏久の霊を祀った神社とされる。神社裏手の長泉寺墓地には氏重の墓とされる五輪塔がある。ここから掘り出され、氏重使用のもの伝わる甲冑が檜原村郷土資料館に展示されている。
檜原城山麓の吉祥寺は檜原城主の館跡とされる。本堂裏手に平山氏石碑といわれる一対の石碑がある。城主とその奥方の墓とされる。