父の背中先代の仕事と教え 桧原苑 中村甚継氏
村制100年を5年後にひかえた1983年4月、中村正巳氏は檜原村長選挙に推され無投票で当選。2期8年にわたって行政の舵取りを担う。その間、過疎化に伴う学校の統廃合、道路やトンネルの整備に尽力した。
「60年代には休眠状態だった桧原農協を組合長として再建。村民から信頼されていたが、家では謹厳そのもの。曲がったことが大嫌いで、私が悪さをすれば鉄拳制裁はあたりまえ。獅子がわが子を千尋の谷に突き落として育てるようなものだったと思う」
長男の甚じんけい継氏がこう振り返る正巳氏は大正生まれ。山梨県の都留中学校(旧制)を卒業すると、率先して陸軍を志願。優秀な彼はエリートコースを歩き少尉で終戦を迎える。戦後は自衛隊の前身である警察予備隊に入り、中隊長まで勤め上げた。
「村長になる2 年前、父は高齢化が加速する村の行く末を案じて老人ホームの建設を計画した。村の高齢化率はすでに30%を超え、いずれ2人に1人が高齢者になる。老人福祉が重要になることを見込んでの決断といえる」
当時、甚継氏は都内でカメラマンをしていた。しかし、ホームの仕事をするため実家に呼び戻される。甚継氏から見ても高齢化対策は必須。急いで認可準備に取りかかり、同年12月に桧原苑開設に漕ぎつけた。
「軍人そして公人として人生を歩んだ父は、常に自分のことよりも地域の問題を優先した。村長選に初出馬するとき『わが家が繁栄するには、ここ笛うずしき吹や人へんぼり里が良くならなければならない。そのためには檜原村が発展しなければだめだ』と語ったのを昨日の出来事のように思い出す」
桧原苑は2012年から甚継氏が理事長の任にあたり、16年に現在の地に建て替えられた。一方、村長を引退した晩年の正巳氏は移転前のホームで余生を過ごした。そこでも、村長経験者らしい凛々しさを失わず職員たちに接していたという。 【岡村繁雄】