青梅縞から夜具地へ 大ピンチをチャンスに変えた
元青梅郷土博物館資料室長の大倉十彌也さん
青梅市河辺在住で、元青梅市郷土資料館資料室長の大倉十彌也さんが3月4日、羽村市川崎の宗禅寺の土曜講座で、「青梅縞と青梅の夜具地」について語った。30人ほどが聴講した。全国ブランドだった青梅縞が染料の扱いに失敗し、信用が地に落ちたとき、夜具地の生産に大転換。大ピンチをチャンスに変えたことなどを漫談風の語り口で伝えた。
青梅縞は絹と綿を交互に織ったしま模様が特徴で、草木の染料を使用した。江戸期の織物の番付に載るほど広く流通した。その青梅縞が明治期に輸入染料の乱用などで品質が低下し、製造は途絶える。
「輸入品の化学染料の扱いに失敗し、青梅縞の色が落ち、問屋にボイコットされた」と大倉さん。
青梅の織物の大ピンチだったが、「着物地の青梅縞から普段使いの夜具地の生産に地域をあげて転換した。これが大成功だった」という。
青梅夜具地は絹や綿で織られ、絵画のような華やかなデザインが人気を集めた。第2次世界大戦後の好景気に乗り最盛期を迎えた。いわゆる「ガチャ萬」景気だ。
大倉さんは「戦後のもの不足と復興、贅沢品と日用品の統制解除、テレビドラマや映画に青梅の夜具地が出たことで爆発的な需要を生んだ」とした。(詳細はインターネットニュース東京25ジャーナル3月18日号で配信中)