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街の探検隊: 発掘された武蔵国における古代版”高速道路”「駅路」-東山道武蔵路【街プレ倶楽部 街歩き 心の風景】

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狭山丘陵東端の八国山将軍塚付近には古代、「東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)」と呼ばれる官道が南北に貫いていたと考えられている。将軍塚付近から南方を眺めると、その道のかなた向こうに武蔵国分寺の七重の塔が見えていたのでは、といわれる。東山道武蔵路は律令時代に東山道新田駅と武蔵国府を結ぶ、12メートルの幅を持ち、側溝を伴い、直線性を持った計画道路だ。
律令政府は、飛鳥時代から平安時代前期にかけて、「駅路(えきろ)」と呼ばれる日本を縦断する幹線道路を敷設した。その一つが東山道。東山道から支道の形で武蔵国府を結ぶために作られたのが東山道武蔵路だ。将軍塚北方の「東の上(あずまのうえ)遺跡」(所沢市)における発掘調査が平成元年。「旧国鉄中央鉄道学園跡地遺構」(国分寺市)での大規模な発掘が平成5~9年。その調査研究の歴史は比較的新しいもの、といえる。
古代道路が直線性を持った、幅12メートルもの計画道路であったことがはっきりしてきたのは、1970年代になってからという。それまでは、古代道路は自然発生的な道幅の狭い小径、というのが定説であった。中世から近世の主要街道の姿から類推して、そのように考えられてきたのものだ。このような大規模な計画道路建設が、青森から九州まで行われたというのは驚異といえよう。中国の官道の制度に倣ったものとはいえ、何故このような形の道が必要だったのかは、未だ充分解明されていないようだ。
駅路に16キロメートル毎に設けられた「駅家(うまや)」のあった場所、駅路と合わせて敷設された「伝路(でんろ)」の実態など、その調査研究は現在進行形のもののようだ。また、駅路が各地における区画設定にあたる条里制の基準線になったと見られ、現在も、道路の向き、地名、地割、行政境界線などにその名残を留めているものが多く、決して過ぎ去ったものではない。
古代国家が行ったこのような大がかりな土木事業を思い浮かべるとき、その謎とともに、古代ロマンを感じる人も多いのではないか。

歩道として再現された東山道武蔵路(国分寺市)

国分寺市の発掘時写真(国分寺市の説明板から)

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