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25journal 父の背中-38- 先代の仕事と教え

コラム

神職教職兼務という流儀

平安末期、信州伊那谷の住人12名があきる野市伊奈の地に村を開いた。その後、郷里の戸隠神社の神霊を祀(まつ)ったのが岩走神社の起源だという。以来、地域の氏子たちに支えられてきたと、現宮司で26代目の宮澤正夫氏は話す。

正一位岩走神社 宮澤正夫氏

「先代の福次郎がまとめた代々の神主の記録を見ると、中興の祖ともいうべき人物がいる。江戸時代の寛政年間に活躍した20代の宮澤安通翁。京都の吉田司家で修行して正一位の神階を授与された。その遺徳を伝える石碑が門人有志の手によって鳥居をくぐった左側に建つ」

門人というのは安通翁が寺小屋を営み、地元の子弟を薫陶していたことに由来する。いわば神職と教職のかけもちだが、これが岩走神社の流儀になっていく。実際、福次郎氏も正夫氏も近隣の小学校に奉職し、校長で定年を迎えた。

「大正生まれの福次郎は豊島師範学校(現東京学芸大学)を卒業後、こちらで教鞭を執っていたが、昭和17年、宮澤家に入り婿。翌年に当時は社掌と呼んでいた宮司を拝命している。神道に〝中今(なかいま)〞という言葉があるが、目の前の仕事を大事にすることを教えられた」

一方、正夫氏は1946年に港区で生まれた。やがて福次郎氏と同じ学芸大学に進み、教師の道を選んだ。初任校は青梅市立第4小学校。この時期に2人は知り合い、福次郎氏の眼鏡にかなった正夫氏も宮澤家の婿となる。

「当然、神職を兼ねることが前提。私は国学院大学に通い資格を取り、大國魂神社で実習。77年に禰宜(ねぎ)の発令を受けた。日々の職務で心がけてきたのは、物事を為すことによって学ぶこと。義父も常々、学者でなく実践家であるべきだと語っていた」

今年が喜寿の正夫氏は法務省立川拘置所の教誨師も務め、未決囚や受刑者たちにしっかりと寄り添う。そんな父親にずっと接してきた2人の子息も、やはり教職を志して、どちらも小学校で副校長の任にある。

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編集室システムU

西多摩地域を中心とした東京25区管内の政治、行政、経済社会、トピックスなどを配信する「東京25ジャーナル」の編集室。
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