青空 台地 農の風 ~ 農のあるまち 生きる人たち~
昭和30年代から50年代 地域を繋ぐ立役者
有線放送電話の思い出(上) 森田美実 (JA西東京代表理事専務)
樹木の幹の横断面に、同心円状に現われる模様を「年輪」といい、成長ともに、時を積み重ねる。時代は「昭和」・「平成」・「令和」と刻み、2021年には日本で2回目となる東京オリンピック・パラリンピックが開催されました。
有線放送電話の普及 青梅では三田農協管内が最初
遡ること、昭和30年代、まだ地方には電話のある家は少なく、電電公社(NTT)に電話を引くにも契約には時間がかかりました。そのような中、全国の農山村を中心に有線放送電話(通称ゆうせん)と呼ばれ通話と放送の2つの機能を持つ電話機が普及いたしました。東京都では、昭和32年に初めて、旧羽村町農協管内(現西多摩農協)に有線放送電話が開通し、この年には、有線放送電話に関する法律もでき、全国へと急速に広がっていきました。その後、昭和34年11月には、旧三田農協管内(現西東京農協二俣尾支店管内)で開通しました。開設に当たり、国・東京都・青梅市からの補助金を受け、残りを農協と加入者が負担し加入者の負担金は5000円でした。加入申し込みは各支部に依頼して、796軒の申し込みを受け管内総軒数の約75%を超えるもので事業に対する関心の高さと、寄せられている大きな期待が感じられました。当時の電話機にはダイヤルがついておらず、通話をするには農協の事務所にいる電話交換手につなぎ相手と通話ができるようになっていました。また、地区内のJR青梅線の5カ所の駅舎や御岳登山鉄道駅舎に公衆電話を置き、自治会館、消防団詰所など公共施設などにも電話機が設置されていました。
開通1周年 児童・生徒の作文募集
そして、開通1周年を記念して地元の小中学校の児童・生徒の皆さんを対象に、作文の募集を行い、有線放送で呼びかけた結果84点にもおよぶ作品の応募がありました。そのなかの、最優秀賞作品をご紹介いたします。
『線一本で結ばれた。』中学3年生女子生徒
「何番、何番、あのー、もしもし・・・・・」と一日に何回となく一本の線の上をいったり来たり、言葉と言葉が交わされます。商売に、友情に、連絡にまたは毎朝のカレンダーというように、私たちの日常生活に実に重大な働きをしている。では、有線のなかった頃を振り返ってみよう。回覧を頼りの連絡でしたので、とかく遅れたり忘れられたりして、完全に山のすみずみまで行き届かなかった。また、農協や商店などへの用事も、いちいち出掛けていかなくてはならなかった。
しかし、不便とも感じず生活して来ました。親から有線の話を聞かされてもピンと来なかったのに、昨年の夏から工事が始まって、柱が立ち受話器が置かれて、いよいよ完成の11月22日の通話開始。
組合長さんの声が、線の上を流れて聞こえて来た時は、実にうれしかった。
〈中略〉
最後にもう一つ、私達学生にとって、目覚まし時計の代わりをしてくれる、6時の音楽。夜分の勉強づかれに床の中でうつらうつらしていると、音楽が聞えて来る。きれいな声で「おはようございます。ご機嫌よくお目覚めですか。」ですっかり目がさめて、気持ちよく起きられる。巻くのを忘れていた目覚まし時計が、枕元で黙っていても、母に毎朝ふとんをはがされなくても、かならず起こしてくれる朝の音楽。
これからも、大いに活躍し、つかれた人たちに活を与え、ある時は知恵を与えて下さることを祈ります。青梅市旧七ヵ村にさきがけ、三田地区に生まれた有線電話。満一周年を迎え、話す人、放送を流す人、みんな上手になりました。あの黒くて小さな有線電話。音楽の聞える有線電話。大いに役立て、かわいがりましょう。(原文)