狭山池は狭山丘陵に貯水池が出来るまでは、地域で唯一の大きな池であった。かつては、「筥の池(はこのいけ)」と呼ばれた。現在は、4つある池の一つに、この名が付けられている。説明板には、「この辺一帯は、古多摩川が流れていた頃、深くえぐられ窪地となった所である。大雨が降ると周辺の水が集まり、丸池を中心とした約18 haは水びたしになり、粘土質のため水はけが悪く耕作できず、芝池になっていた。」とある。現在の池の規模は1.5ha。丸池は4つの池のひとつで、現在の中心となる3つの池に注ぎ込む流れに沿った遊歩道を進むと現れる小さな池である。
江戸時代の初めに、狭山丘陵から流れ出す残堀川に狭山池の水を流し、玉川上水の助水とした。また江戸後期に大規模な池さらいをした。これらの影響で池の水位が下がり、現在の規模となった。池の水が涸れ、小規模となったことは、蛇喰い次右衛門と蛇掘川の話しとなって伝わっている。残堀川はの名は、蛇掘川に由来するという説もある。
遡って、平安時代には、源義家(八幡太郎義家)が、永承年間(1046-1053年)、奥州征伐に向かう途中に、この地に野営。その時、夢で見た箱根権現のお告げにより、現狭山神社に箱根(筥根)大神を勧請した、と伝わる。これが現在の狭山神社で、この話が箱根ヶ崎の地名の由来、と考えられている。箱根ヶ崎はかつて筥根ヶ崎とも書いた。また、鎌倉時代には、この池の風景を詠んだ歌がいくつか歌集に載せられている。
狭山池は、このように昔から景勝地として知られた場所。近くに青梅街道や日光街道が通り、宿場があった。当時、恰好の休息の場であったと思われる。江戸後期に書かれた『武蔵名勝図会』にも、挿絵付で紹介されている。現在も、オアシスのような町民の憩の場である。春には桜が美しく、四季を通して松などの緑が楽しめる。丸池に至る遊歩道も趣がある。早春には近くの狭山神社北斜面がカタクリの花が被われ、カメラを手にした人で賑わう。
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