青梅探訪うんちく講座
「青梅探訪うんちく講座」が昨年、ネッツたまぐーセンター(青梅市上町)で開かれた。講師はNPО法人青梅まちづくりネットワークの村野公一理事長と大倉十彌也副理事長。
前の講座は元同市郷土博物館資料室長の大倉さんが「青梅の歴史概略」と題し、中世から現代までを5つに分けた青梅宿についてうんちくを傾けた。
室町時代末期(1500年〜)では「一帯を治めていた三田氏宗(勝沼殿)が連歌師、柴屋宗長を招いた場所は塩船の山寺の杉本坊で青梅村の金剛寺ではなかった」と史料(「東路の津登」)などを挙げて講じた。「青梅と言えば青梅宿(現青梅駅周辺)から発展したと思われがちだが実際は今井、今寺方面の東から開けていった」と解説。
また戦国時代末期に「後北条氏の家臣、師岡山城守が治めていた師岡(勝沼)城下に『二日市』、今井・藤橋に『七日市』があった」と考証し、この両市が江戸時代に青梅村に六斎市として移され、「その名残りが青梅だるま市だ」と紹介した。
江戸時代に青梅宿が大きく発展したのは「成木、小曽木の石灰に着目した八王子代官の大久保長安がその管理・運搬のために出先機関の陣屋を作り、宿場や街道を整備したことが基になった」と傍証を加え、自説を展開。その後260年余、青梅宿は「石灰、織物(青梅縞)、薪炭、杉、梅干し、柚子など生活物資の供給元として江戸の繁栄とともに発展してきた」と語った。
明治中期に石灰運搬の鉄道が敷設され更に町が発展し、明治・大正期には「西多摩郡役所はじめ新政府の行政機関や各種事業所が集中し、西多摩随一の町になった」と解説し、「明治22(1 8 8 9)年に青梅が町になったとき立川はまだ村だった」と付け加えた。
主産業の織物は昭和前期から中期まで「青梅縞から青梅夜具地への転換が全国規模で成功し未曾有の好景気のガチャ万時代を迎えた」と強調し「町は活気に満ち3軒の映画館は女工さんや若者らで溢れた」と懐旧的に語った。
しかし昭和後期以降について「東京五輪頃から押し寄せた大量消費・大量生産時代の波に青梅の産業が付いて行けず町は急激に衰頽し現在に至っている」と所見を述べた。最後に大倉さんは「昔の青梅の人は工夫に工夫を重ねて青梅縞や梅干しを名産にした。我々も青梅の財産である歴史、文化、豊かな自然など他になくて青梅にあるものを総合して青梅でなければできないものを考えようというのが今日のテーマ」と結んだ。
午後は村野理事長が「青梅の祭りから見た青梅の文化レベルの高さと青梅ならではの魅力について」と題し、文献を主にうんちく話を披露した。(提供:西の風新聞)