多摩ケーブルネットワーク設立40 周年
苦難のスタートから西多摩経済代表する企業へ
日本初の都市型ケーブルテレビ
地域に根差した番組作りや一早くネット事業取り込む
日本初の都市型ケーブルテレビ局として誕生した多摩ケーブルネットワーク(舘盛和社長、青梅市新町)が今年で設立40周年を迎えた。バブル崩壊後の経済状況や電波障害のない地域というハンデを背負い開局後10年間は赤字が続いた。だが、地域に根差した番組作りや一早くインターネット事業を取り組むなどサービスの向上に努め、契約世帯を拡大。その後は年々、安定した収益を生み出し、青梅市、西多摩経済を代表する企業に成長している。(東京25ジャーナル・岡村信良)
1980年代の日本は、力強い経済発展を遂げていた。企業も個人も挑戦の姿勢が強かった。ヤクルトに勤めていた舘氏も起業したいとの欲求が溜まっていた。
青梅市が米国ルイジアナ州のラファイエット市と交流を模索する中で、舘氏は民間の立場から協力し、現地を訪問する機会があった。そこで目の当たりにしたのが多チャンネルのケーブルテレビ。地元のニュース、スポーツのほか、様々な専門放送が流れ、視聴する誰もが熱狂していた。ケーブルテレビの多様性が日本でも支持されるのではないか、と直感。日本でケーブルテレビ局を作ろうとの思いが膨らんだ。
設立に向けての資金調達はまず親戚や知人を当たった。次に地元の有力者に声をかけ、10人の発起人を集めた。40〜50代が中心で30代の舘氏が最年少だった。
1983年6月に会社を設立。すぐさま開局申請に取りかかったが、壁に当たった。その頃、郵政省もケーブルテレビに関心を寄せいていたが、それはビル陰などの電波障害対策や区域外再送信としてのケーブルテレビ。ビジネス、そして双方向のケーブルテレビなどの考えは白紙という状態だった。
許認可事業には全てに基準があるが、ビジネスとしてのケーブルテレビにはなかった。郵政省はもちろん建設省、通産省の関係する事も多く、舘氏は説明に出向き、時には関連各課、各省庁担当部署と定時過ぎに酒を酌み交わし、都市型ケーブルテレビについて議論。何10チャンネルも放送できる広帯域であること、一定以上のエリアであること、将来の通信に備えて双方向であることなどを整理した。
5G時代へブランド力を高める
労苦が報われたのが、1987年4月。多摩ケーブルネットワークは都市型ケーブルテレビ日本第1号として開局した。ニューメディアとしての関心を集め、NHKをはじめ民放と大手新聞各社が大々的に報じた。舘氏と関係者が日本の都市型ケーブルテレビの未来を切り開いた瞬間だった。
ただ、開局後も困難は続いた。「N HKでもないのに、なんでテレビを見るのにお金を払うの?」。有料放送は簡単に受け入れられなかった。加入者は思惑通りに増えず赤字を重ね、債務超過に陥った。バブル景気後の大幅な金融引き締めもこたえた。
10年間は赤字が続いた。それでも加入者が増え、少しずつ利益が出るようになった。徐々に繰越欠損を減らし、欠損が10億になった時、95%の無償減資を断行。その減資差益と当期利益で一気に債務超過と繰越欠損を解消した。翌期から配当も開始できた。
加入者増加の背景には多摩ケーブルネットワークに加入すれば、「地域のニュースが毎日見られる」と言われるほど、地域に浸透したことだ。生活圏の情報は重宝され、「コミュニティチャンネルだけ見られればいい」という声もあるほどだ。
例えば1万9000人参加する青梅マラソンの実況中継は開局以来の看板番組。優勝争いを映すのはもちろんだが、中間ポイント、折り返し地点、ゴールなどに定点カメラを据え、出場者全員の姿を映す。参加者が帰宅後、家族で一緒に見られるよう夜も再放送を行い、1日13時間マラソンを放映する。
5月に開かれる青梅大祭の6時間半にわたる生中継も看板だ。計12の山車が青梅市の街中を曳かれるが、祭りの当日だけでなく、祭りに向けた各町内会の稽古風景もリポートする。
コミュニティチャンネルの充実に加え。飛躍を加速させたのが最高品質の提供に努力し続けたインターネットサービスの普及だった。
統合が相次ぎ、一極集中が続くケーブルテレビ業界だが、多摩ケーブルネットワークは買収の持ち掛けもすべて断った。5G時代の到来に備え、高クオリティのサービスでブランド力も高めてきた。地域BWA(地域広帯域移動無線アクセス)の認可も得て、無線・有線のインフラを揃えた。「情報化時代、地域に根差して最先端技術を活用すれば、面白いことができる」と舘氏は今後を見据える。