青梅市「天満公園」の再開と伊藤家の石積み

都立天満公園
梅の栽培は、梅郷ばかりではなく、畑中や二俣尾にも畑があり、どこが梅栽培の起源かを示す資料は「市史」にもありません。
江戸時代の文政6年(1823)『武蔵名勝図会』には梅の名所として、多摩郡氷川郷下村(しもむら)の項に「梅子当村の名産にて、村内の小名に「梅之内」などと号する地もあり。村内所々に多しといえども殊に中分に多し。花時に至りぬれば、濃こう芬芬として、人おのずから賞翫し、その実を江戸に出せること、馬に負わせて年々百駄に及ぶと云。」と、著者植田孟縉(うえだもうしん)が当地訪問の際に、すでに観梅に人々を誘うほどの梅園と、梅の実の生産・出荷が盛んで、下村中分(現在中郷)が、特に盛んであったと具体的に記述し、この内容は全国的に知られています。
また、明治の『皇国地誌』の下村地誌のあと書きには、同じ中郷の伊藤文五郎の家には、先祖の伊藤将監、主計父子が天満宮(菅原神社)を勧請、永禄4年(1561)の創建と伝え、梅郷(下村)小名中村の鎮守である。この文五郎氏から数え15代前の先祖伊藤将監は、伊豆から多摩郡の下村に入植、一族は現在の梅郷4丁目に「天神」の屋号で屋敷を構え、観梅時期は来訪の人々への接待をしていました。
伊藤文五郎氏の世代までは、自営業でしたが、昭和になって後継者が製糸会社に勤務、市街転出となり旧居地を都立天満公園の一部に提供されました。市の梅の公園からもよく見える古い石積み、公共事業には珍しい姿であるのは、旧伊藤家の永い歴史を語る遺構だからです。梅の苗木も伊藤氏が、伊豆から持ち込んだ可能性を指摘される人もあります。
(画・文大倉十彌也)
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