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25journal 奥多摩びとを訪ねて 町の風土と自然を敬い、郷土愛に燃え

コラム

奥多摩町には近年、手厚い移住、定住支援策を利用し若者や若い世代の家族が移り住み、独自の価値観を持った暮らしぶりなどが多くのメディアに取り上げられている。人口減が止まらぬ中、明るい話題だが、お年寄りの中にも町の風土と自然を敬い、郷土愛に燃えて幸せに暮らす人も多い。奥多摩に生まれ育った人、結婚とともに移住した人、定年後に終の棲家にした人。3人の奥多摩びとを訪ねた。

奥多摩に生き切る人生 氷川 大野文夫さん(94)

ゲートボールの腕前はトップクラスの大野さん(4 月5日撮影)

昭和元年生まれ。まるまる3つの元号を生き抜いてきた氷川の大野文夫さん(94)はかくしゃくとして暮らし、「人生これから」と前を向く。周囲は「心身ともにしっかりしている。とにかく誠実な人」と異口同音に語る。

家は同町で最も歴史の古い家とも言われ、後鳥羽天皇の皇子につながるとの伝えがある。8人きょうだいの末っ子。進学を志していた矢先、父親が他界。夢をあきらめ、16歳で地元の川辺木材に就職した。当時町内には60ほどの材木店があったが、川辺木材は社長が町長を務めるなど老舗中の老舗。駆け出し小僧で始まり、戦後は山の責任者として労務関係を担当した。

木材の搬出は、川をせき止めて、堰を切って一気に流す鉄砲出しから、やがてトラック、鉄道の貨車で運ぶ様子を目に焼き付けてきた。全国から山の仕事師が集まり、川辺木材では神奈川、山梨、静岡、長野などの山も購入し、拡大を続ける木材需要に応えた。昭和30年代、活況が続く木材市況だったが、1962年に政府が外材輸入を決断したことでピークを打つ。その後、国内の林業は衰退の一途をたどった。

81 年、55歳の時に転機が訪れた。長男が自動車や電気機器に使われるマグネット部品の会社を設立。大野さんは山を売り、資本金を援助。工場の管理にも携わった。会社は複数の特許を取り、海外展開に乗り出し、苦労もあったが成果を収めた。

地域でも活躍。若いときは氷川青年団長として活動。奥多摩渓谷駅伝にも5度出た。同町消防団副団長も務めた。年を重ねてからは釣りを楽しみ、関東一円の山を登った。今も続けるゲートボールは週3日の練習を休まない。

郷土への思いは色あせない。「観光施設ならしゃれたホテルより、バンガローが奥多摩らしい。大型バスが止められる駐車場も必要。街道沿いのスギ、ヒノキを伐採し、サクラやカエデを植えればいい。奥多摩駅周辺のシンボルとなる愛宕山山頂を公園として整備し、モノレールで下と繋げればいい」。アイデアは尽きることなく湧いてくる。

訃報 大野さんは5月5日、小脳・脳幹梗塞のため死去しました。葬儀は12日、遺族で執り行われました。故人が新聞発行を楽しみにし、家族の希望もあり、生前を忍んでいただければと掲載しました。心よりご冥福をお祈りいたします。     (岡村信良)

「我がラグビー人生に悔いなし」川井 中村猛さん(87)

国学院大学ラグビー部監督を31年間務めた中村さん

奥多摩町川井の中村猛さん(87)は22年前、終の棲家として同地に移り住んだ。風光明媚な自然の中に暮らし、ふと思い出を振り返るとき、国学院大学ラグビー部監督を31年間務めるなど「我がラグビー人生に悔いなし」と確信する。

武蔵野市吉祥寺の出身。ラグビーとの出合いは1948年、旧制の久我山中学校(現国学院久我山)3年のとき。新任の篠高一教諭がラグビー部を創部。ラグビーは馴染みはなかったが、先輩の導きで入部した。

練習は明治大学の八幡山グラウンドで行われた。明治の主将でフランカーだった村上令さんに憧れた。村上さんは太平洋戦争で右手首を失っていた。南方で戦死した兄とも重なり、目標になった。村上さんと同じフランカーのポジションにつくと一層練習に打ち込むようになり、ラグビー馬鹿の生活が始まった。

中央大学に進んだが、ほどなく父親が狭心症を発病。ラグビー部をやめ、夜間部に移った。ラグビーが忘れがたく、クラブチームで活躍。様々なラガーマンと交流する中で早稲田大学の大西鉄之助先生からラグビーの戦術などを教わった。

国学院大学の監督になったのは68年。2年ほど監督として携わった久我山の教え子が7、8人、国学院大学に進学した。「練習を見に来て欲しい」と言われ、足を運ぶと監督として紹介された。グラウンドも道具も恵まれなかったが、リーグ戦2部の上位を保ってきた。87年、部史に栄光を刻んだ。全国地区大学ラグビーフットボール大会で優勝した。ほとんど監督報酬もなく、自分の生活を犠牲にしてラグビーに打ち込んだ時間が報われた時だった。

ラグビー人生に理解を示してくれた妻の優美子さんと2人暮らし。足腰のため午後のひと時に目の前の大丹波川沿いを散歩する。町の現状もしっかり見ている。「奥多摩駅を中心に氷川地区を再開発し、スーパーマーケットや医療機関を整えてはどうか、議員定数を削減し、開会を土日にできないか」。こうして欲しいと思うことはいくつもある。

90歳まで資源産業一筋の道小丹波 髙崎高雄さん(91)

難関の技術士に合格。技術、安全指導で全国を歩いた髙崎さん

90歳まで資源産業一筋の道を歩んできたという小丹波の髙崎高雄さん(91)は「途中では思わなかったが、いい人生だったと感じている」とうなづく。

出身は福島県。学徒動員生で終戦を迎え、岩手大学を1949年に卒業した。炭鉱産業が華やかな時代、古河鉱業に入社した。50年、朝鮮動乱が勃発すると九州に赴任。戦争特需で潤った。53年にいわき市に転勤。炭鉱の全盛の頃で給料は驚くほどもらえた。

だが、需要が石油に代わると全国70万の炭鉱労働者のほとんどが職を失った。髙崎さんも例外ではなかった。奥多摩町の昭和石材を紹介された。30代半ばの頃だった。

当時、昭和石材は坑内採掘を行っていたが、大手と比べ安全対策は大きく遅れていた。事故が多く、労働者が粉じんを吸うことでじん肺になることも懸念された。就職面談の際、保安の重大さを訴えると、日本砕石協会長を務めていた社長から対策をすべて一任され入社した。

坑内採掘を坑外採掘に転換するなど保安対策に当たった。一方、山の買収、採掘場への道づくり、表土除去などの重要な仕事も任され、無我夢中で仕事をこなした。83年、事故率ゼロが評価され、鉱山保安表彰を会社と髙崎さん個人が受賞。努力が報われた。

生産量が増え、事故、公害も減少すると、経営も安定。登山家の田部井淳子さんら著名人を招いた講演会などを開き、地域に貢献した。

93年に退社すると、日本砕石協会の技術指導員となり、後進の育成に当たった。翌年には周囲に勧められ、難関の技術士資源工学部門を受験し、見事合格した。技術、安全指導で全国を歩き回った。 2人の息子を育て、妻を送り1人暮らし。朝は5時に起きて畑にいそしむ日々。自然豊かな奥多摩町を心から愛する。

9年前に周囲に押され、町長選に出馬したことを「人生の汚点」と振り返るが、まちづくりへの思いは熱い。「台風による日原街道の崩落事故で日原地区は孤立状態になった。大丹波と結ぶ道路を造成し、備えるべき。きれいな空気と人口光の少ない環境を生かし、天体観測所の建設を進め、観光の活性化につなげてほしい」と熱く語る。

コラム執筆者

編集室システムU

西多摩地域を中心とした東京25区管内の政治、行政、経済社会、トピックスなどを配信する「東京25ジャーナル」の編集室。
“地域の今”を切り取ります。

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