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河合弘之弁護士が語る西多摩霊園の「中国帰国者之墓」

西多摩霊園にある「中国帰国者之墓」

今年4月中旬に『もう中国とは「共助」でないといけない』(日本僑報社)を出版した。日中識者8人との対談集である。その第2章に登場するのはさくら共同法律事務所所長弁護士で中国残留孤児の国籍取得を支援する会会長の河合弘之氏だ。

1981年11月22日の朝日新聞夕刊「中国孤児の徐明さん母子」「祖国の年の瀬 肌寒く」「『まぶたの父』は別人だった」の見出しを見た旧満州新京市(現・中国長春市)生まれで家族とともに引揚船で帰国がかなった河合弁護士は他人事と思えなかった。「徐明さんを支援する会」に「訴訟よりも家裁に日本人子女だと立証する『就籍』の方法で日本国籍を取得しよう」と提案。幸い徐さんが持参していた中国の公証処発行「日本人孤児証明書」が効き半年後に今村明子名で国籍を取得することができた。

弁護士で中国残留孤児の国籍取得を支援する会会長の河合弘之氏

当時の今村さんは日本語が壁で転職を繰り返していた。河合弁護士から「僕の事務所で『日本国籍の取得サポート』を担当しないか?」と言われると2つ返事で了解した。陳述書提出の際には中国語しかできない帰国者に電話や訪問で手続きに必要な書類を集めていった。その結果、中国残留孤児の就籍による国籍取得は1250人超に上る。

この間、今村さんは妹を探していた茨城県の池田姉妹と偶然出会い、DNA鑑定の結果、「99・999% 姉妹」と出て51年ぶりに本名「池田澄江」を名乗る。

それでも帰国者たちの生活は日々困窮していて「早期帰国実現義務違反」と「自立支援義務違反」の2つを根拠に国賠訴訟を起こす。その原告団長は池田さんが務めた。だが、東京地裁判決が酷い内容でメディアが同情、与党PT座長の野田毅衆院議員(当時)が第1次安倍政権に働きかけ、生活保護の約1・5倍に当たる「新施策」が決まった。

河合弁護士は中国帰国者の遺骨が各家のテレビ台や押し入れに放置されていると聞き、それでは成仏できないと思い、既に購入していたあきる野市菅生「西多摩霊園」2区画を、自分たちの両親はまだ当分健在だろうからと提供を決意。河合弁護士は「木の葉は枯れ落ちて根もとに帰ることから、他郷をさすらう者も落ち着く先は故郷」という意の「落葉帰根」にも心動かされた。除幕式は1990年6月17日。

霊園に足を運び、管理事務所で中国帰国者の墓の場所を聞くと丁寧に教えてくれた。進行方向を上った中腹のY字路にひときわ大きな東海大学松前一族の墓がある。その右手小こみ ち径を少し歩くと海部俊樹首相(当時)揮毫による「中国帰国者之墓」と2歳で旧満州奉天市(現・中国瀋陽市)に渡り戦後帰国した漫画家ちばてつや氏デザインの「まんしゅう地蔵」が建つ。その日も綺麗な仏花がたむけられていた。管理はNPO法人中国帰国者・日中友好の家理事長の池田さんたちが担っている。

お金とお墓の次の問題は言葉の壁だ。河合弁護士は40、50代で帰国した人たちは日本語が話せないのでどの集会でも中国語が飛び交う。これでは日本の社会に参加できないと思い、御徒町のビル1階と地階を借りて「家」を設立。中国からの帰国者たちはここに集まり合唱や餃子を作ったり仲良くしている。

池田さんにインタビューしたら「河合先生にはこれまで本当に大変お世話になりました」に続き「40年前の日本は私たちを温かく迎えてくれ天国だったが、今の日本はおかしい。電車通勤で座りたいと思っても優先席を若者が占領していて寝たふりや携帯を見ていてこちらと目を合わせようとしない」との苦言。

この話を河合弁護士にぶつけると「日本人が人に優しくない国民になってきた。人と人との関係が非常にギクシャクしている。個人情報の過剰保護で日本が覆面社会になった。これの一番の悪用は行政文書の黒塗りだ。『個人情報の保護』は公人が悪事を隠蔽(いんぺい)するための魔法の言葉になっている」と指摘する。

そして最後に「僕も登場した土屋さんの『もう中国とは「共助」でないといけない』は対談相手の8人が多士済々で読み応えがあった。中国人は日本の残留孤児を我が子同然に育ててくれるなど優しい。『隣の大国と仲良くしないでどうする』だよ」と言い、日本の行く末を正視した。

河合氏も対談相手で登場する『もう中国とは「共助」でないといけない』

コラム執筆者

編集室システムU

西多摩地域を中心とした東京25区管内の政治、行政、経済社会、トピックスなどを配信する「東京25ジャーナル」の編集室。
“地域の今”を切り取ります。

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