「学校のことを知りたい。報せたい」新聞部を創部、初代部長に
東海大菅生高校1期生 清水裕之さん(立川市)
政治島田家久氏の秘書も
部活動が活発な東海大菅生高校に新聞部があったことを知る人は何人いるだろうか?。
開校2年目、「新聞部をつくりたい」と生徒からの直訴を受けた近藤英一教諭らは島田久理事長に相談。「1人でも2人でも生徒から要望があれば応えてほしい」が理事長の方針。バスケット部やサッカー部など複数の部活を掛け持ちしていた近藤教諭が顧問に就任。新聞部が誕生した。
「学校のことをもっと知りたい。報せたいが動機だった」。直訴した1期生の清水裕之さんが部長となり、吉田さん、立花さんの3人で創刊号発行に向け動き出した。その名も「菅生新聞」。A4判4ページ建て。題字は初代の島村教次校長が筆を執った。企画を練り、取材に飛び回り、季刊の発行を目指した。
「忘れないですよ。創刊号は先生方が取材対象でした。教科、出身大学などプロフィール記事を顔写真入りで紹介した」。印刷は同級生の親が経営する福生市の太陽印刷。刷り上がった新聞を手にした喜びは今も鮮明だ。
最も印象に残るのは、島村校長が辞任した際、次の校長をめぐる動きを追った記事だ。当時は中曽根政権で、総理は風見鶏と揶揄された。これをもじり、「島村校長辞任で揺れ動く教員間の派閥 菅生の風見鶏は誰だ」との衝撃的な見出しを付けた。さすがに発行を許可するかが問題になった。「マスコミらしくていいじゃないか」と島田久理事長は評価しながらも、寸前で停止となった。結局、校長はしばらく島田久理事長が兼務した。スクープを追った清水さんらの卒業後、新聞部は間もなく廃部になった。
清水さんは大手旅行会社、病院勤務を経て、政治家を目指し議員秘書になった。地元選出の都議、衆院議員をふり出しに、自民党を離れ民主党に籍を置いていた鳩山邦夫氏、そして都議、衆院議員を務めた島田久理事長に仕えた。20代半ばから30代半ばの8年ほどだったが、社会勉強と人脈づくりで大きな財産になった。
清水さんは「島田久理事長は自分がやりたい道を突き進み、最後まで貫いた。随分飲みにも連れて行ってもらい、カラオケが好きだった。新聞部では様々な学校行事のあり方やその日程に至るまで生徒会の中に加わり意見を述べさせてもらった。学校生活では新聞部を通し随分楽しいことができた」と目を細めた。
1期生は菅生の草創の時代をつくる先兵だから自由闊達な学校生活を送らせてもらえたのかも知れないと感謝の思いでいっぱいだ。